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【美術解説】マルティン・ラミレス「マッシュポテトと唾液で作品を制作」

マルティン・ラミレス / Martín Ramírez

マッシュポテトと唾液で作品を制作


『無題(馬に乗ったメキシコ人)』,1953年
『無題(馬に乗ったメキシコ人)』,1953年

隔絶された病院の中で、マルティン・ラミレスは静かな革命を起こした。彼はごみの切れ端と食事の残りを使い、独自のキャンバスを作り上げ、その上に魂を描き出した。20年の孤独な歳月の後、彼の手は止まることなく動き、注目すべきドローイングとコラージュを生み出し続けた。その作品は、病院の壁を超え、世界に彼の内なる声を届けるための力強い手段となった。

概要


生年月日 1860年
死没月日 1940
国籍 ドイツ
ムーブメント アウトサイダー・アート

深い影を背負いながらも、狂気の縁で絶え間なく舞い踊る創造の精霊、マルティン・ラミレス。彼は、成人後の余生をカリフォルニアの厳格な精神病院の隅で静かに過ごし、緊張型統合失調症という名の不可解な宿命を背負いつつ、20世紀におけるアウトサイダー・アートの圧倒的な存在としてその名を刻んだ。

 

1895年、メキシコのハリスコ州にあるテパティトランのリンコン・デ・ベラスケスという地で、世界の混沌とした息吹の中に生を受けた彼は、1918年にマリア・サンタ・アナ・ナバロ・ベラスケスと結ばれ、家庭を持つ。洗濯屋での質素な生活を背に、生計を立てるべく、妊娠中の妻と3人の子供を残して、未知の地アメリカへと旅立つ。だが、その旅は、小柄な彼にとって絶望の序章に過ぎなかった。

 

1925年から1930年の間、カリフォルニアの鉄道会社での過酷な労働は、彼の体を蝕んだ。言葉の壁に阻まれ、やがて失業し、ホームレスの身となる。1931年、彼の運命は警察によって拘束され、カリフォルニアの精神病院施設、デ・ウィット州立精神病院の閉ざされた扉の向こうに導かれる。そこで30年という歳月を、緊張型統合失調症の診断の下、静かに、しかし熱烈にアートと対話する日々を送った。

 

彼の生涯は、ストックトン州立病院から始まり、1948年、オーバーンのデウィット州立病院に移され、最終的な舞台が設定された。

 

病院の孤独な隅で、ラミレスは静かに時間を重ね、20年の歳月が流れた。彼の創造の炎は、隠れた灰の中で燃え続けていた。やがて、彼は身の回りのごみの切れ端を拾い集め、それらをマッシュポテトと唾液の混合物で緻密に貼り合わせた。この不思議な紙の上に、彼は魂の描写を始める。彼の手から生まれるドローイングとコラージュは、注目に値する芸術作品へと昇華された。

 

病院の清潔さを守る名目で、彼の作品は破棄される運命にあった。しかし、ラミレスはこの運命を巧みに回避し、彼の創造物を隠し持ち続けた。そして1954年、彼の孤独な創作活動は、サクラメント州立大学の心理学と美術の客員教授、タルモ・パスト博士の目に留まる。パスト博士はラミレスの芸術に惹かれ、彼に画材を提供し、彼の作品を世界に紹介する役割を担った。

 

ラミレスの作品は、メキシコの民俗的伝統と20世紀の近代化を反映し、彼の独特の視点を表現している。彼のドローイングには、グラファイト、色鉛筆、クレヨンが用いられ、細かくちぎった雑誌のイラストが貼り合わされたものもある。作品にはマドンナ、乗馬、トンネルを行き来する列車、劇場のプロセニアム、装飾的なパターンを描く同心円のうねるような線が見られる。

 

ラミレスは自身の作品の遠近法の力強さを自覚しており、観察者に作品を最適な視点で見るよう指示することもあった。

 

75歳でこの世を去ったラミレスは、300点以上の力強いドローイングを遺し、そのサイズは縦2インチから9フィートに及んでいた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Mart%C3%ADn_Ram%C3%ADrez、2024年2月4日アクセス

・図録『パラレル・ビジョン』展

 

■協力

・ChatGPT

・Canva